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イキイキと活躍する学生・学員をご紹介 進取果敢

田部 長右衛門 氏(平14法)

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500年続く事業もなくなることがある
時代変化に対応する名家25代目の学員

2017年(平成29年)9月25日


田部 長右衛門(たなべ・ちょうえもん)氏

 田部長右衛門という名前をご存じだろうか。島根県奥出雲で700年以上続く山林大地主田部家の当主が代々襲名する名前。第25代は、中央大学出身の38歳で、現在、約30社の企業・団体の役員を務める。田部家の祖業である500年以上続いた“たたら製鉄”は100年前に滅んだ。変化に対応しなければ、名門もいつか衰退する。それはわが母校とて同じ。重圧の中で、家と事業の存続・発展をかじ取りする名家当主にインタビューした。



<プロフィール>
 1979年(昭和54年)生まれ。2002年(平成14年)法学部政治学科卒後、株式会社フジテレビジョンに入社。2010年(平成22年)に帰郷し、株式会社田部をはじめとした家業を継承。2016年には山陰中央テレビジョン放送株式会社の代表取締役社長に就任。現在、7社の代表取締役と2つの財団法人の代表理事を務める。各社の経営理念には「人・地・想」を掲げ、人と地域と想いを大切にする経営を推進する。また、新しい事業として、高級冷凍食品のプロデュースなど新たな市場へのチャレンジを続けるとともに、地元温泉地の活性化やたたら製鉄の復興など、地域産業の創出・成長への取り組みも加速させている。

中大在学中に先代が急逝

――「日本一の山林王」とも言われる田部家の25代当主の襲名は一昨年と伺っています。

 確かに歴史は古い家です。たたら製鉄を500年ぐらいやっていました。でも、もともとは“タタラモン”と呼ばれたように、そんなに上品な家ではなく、荒くれ者の集団という感じかもしれません。先祖は和歌山の田辺で、熊野水軍です。水軍と言えば恰好いいですが、まぁ海賊みたいなもの。それが1246年(寛元4年)に島根県にやってきます。その後、武士を11代やってからたたらを始めます。だから「海賊から山賊になっただけ」と、祖父はよく言っていました。
 製鉄のために木材が必要ですから、昔から山をどんどん買いました。その結果、山林所有が増えたにすぎません。それでも地域の方々が、当家をいろいろ大事にしてくださるのは、祖父が私費で病院や難病研究所を建てたり、代々の当主が地域貢献をしてきたからだと思います。
 私がこの名前を継いだのは2年前の11月7日。父の命日、十七回忌のときです。でも、グループのトップとして経営に関わったのは30歳のときからになります。
 田部長右衛門という名前は本名ですから、戸籍上も変えなければいけません。普通は先代が亡くなったら名前も一緒に相続するのですが、当時は20歳。中大の学生でした。右も左もわからないお兄ちゃんが長右衛門という名前を継ぐ……そもそもそういう話にならなかったわけです。とんでもない、と。
 30歳で地元に帰って、31~32歳のときに「そろそろ名前を変えたほうがいいかな」と母に言ったら、「何言っているの!」とすごく怒られました。半人前のくせに、ということなのでしょう。35歳になって伯母たちから呼び出され、「長右衛門、継ぐの?」と聞かれました。「いや、いつ、どうやったらいいのかわからない」と言ったら「私たちが生きているうちに早く継ぎなさいよ」と。でも、「では継ぎます」というわけにはいきません。父の十七回忌が来年というときでしたから、ではそのときにしましょうということになりました。母に言ったら、「まぁ、いいけど」みたいな感じでしたね(笑)。

――そもそも、どういう経緯で中大に入られたのですか。

 22代の曾祖父が早稲田大学、23代の祖父は京都大学。24代の父は慶應大学で、何かというと三田会。私も慶應に行かせたかったようですが、それに対する反発も少しありましたね。祖父は政治家で、戦前から衆議院議員で、戦後は島根県知事も務めました。父は政治をやらず実業を継いだので、祖父は竹下登さんを後見して政治の後継としました。
 子供のころの私は祖父への憧れもあり、自分も政治家になろうと思っていました。それで、大学は政治学を勉強しようと思い、中大の法学部政治学科を受けたわけです。もっとも、母は私が政治家になることには大反対でしたし、私自身、実際に自分の手で企業経営を行うようになり、国や地域のために、民間企業こそが担うべき役割やその重要性について感じるところが大きくなっていきました。これから新しくやっていきたいこともたくさんありますので、いまは政治家になろうとは思っていません。

学生時代の仲間の友情は忘れない

――どんな学生生活でしたか。

 1998年(平成10年)に中大に入学するまではずっと地元にいました。うちは家の下に会社の事務所があったので常に人がいっぱいいて、中にはやかましいことを言う人もいました。だから、ひとり暮らしになった途端にとても開放的になってしまいました。背中に羽が生えた感じ。まず驚いたのは「田部」を「たなべ」と読まない。地元ではみんな私や家のことを知っていましたから、そういう面での自由も感じましたね。楽し過ぎて、いきなり大学1年生から羽目を外し過ぎたということがあります(笑)。
 最初に勧誘された球技のオールランドサークルに入会して、そこでたくさん友達ができました。もっとも、大学生活を満喫し過ぎて、1年目はあまり単位が取れずに反省することになります。
 1年生の秋になって、父ががんになったと知らせが来ます。そのときは手術をすれば治ると聞いたのですが、一度退院し、翌年の夏に倒れてその年の11月に亡くなります。そこからは、学生生活も180度変わりました。
 私どもの家は代々家業を継いで、私が25代目になることは子供のころからわかっていました。でも、自分が将来継ぐべき世界と、現実の自分とのあまりの乖離に悩んでいました。一番苦しんだのは、中学生のころ。現実逃避し、学校で何があったというわけではないのに授業を休みがちになった時期がありました。あまり怒ったりしない父だったのですが、そのとき「お前は、わしがいなくならないとしっかりしないのか!」と言われた。そこだけ痛烈に切り取って覚えているわけです。高校では友達と楽しくやり、大学でも大勢の仲間ができた。そんな矢先、父が急にいなくなってしまった。すると、父のあの言葉が思い出され、自分がしっかりしていないから、父がいなくなったのでは、と思い悩むようになってしまったのです。
 亡くなった後の11月、12月は授業も出られませんでした。相続のこともありましたから、島根と八王子を行ったり来たりです。当然、その時期はテストがあります。いろいろな方の励ましもあって、「まず4年で卒業しなければ」という思いになった。そこから、きちんと単位を取ろうと思いました。あのころ住んでいた聖蹟桜ヶ丘の部屋に集まってくれた仲間たちの友情は忘れません。いまでも大事な仲間です。

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